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国内アニメーション作品歴史年表 100年の歴史を6部にわけて紹介しています。
当ページでは1917年から1945年にかけての作品を一部ではありますが紹介しています。
当初、気軽に年表のまとめ(参考)程度で制作していたのですが、有識者の方から制作に関するご指摘がありましたので、今後も修正箇所が見つかり次第訂正させていただく予定です。
ただ、当年表での記載内容は当方の推測も一部含まれていますが、信用できると判断した論述・公表文を参考に、自分なりにまとめて年表化しています。その点ご了承いただけますよう、宜しくお願いします。
更新
2018年2月9日 有識者の方からのご指摘により、記述の確認・修正作業実施(継続)
近代アニメーション上映の動力源には電気を必要とし、テクノロジーとのつながりも強いことから
映像技術についても適時わかる範囲で記したいと思います。
当年表において商用アニメーション歴史の線引きとして、製作(配給)会社とアニメーション作家による
オリジナル商用作品であること、ストーリー性のある内容で現在の興行形態同様、
常設映画館での上映をはじめとするものとします。※一部例外を除く
また、上記の条件に合致する1917年の発表作品群を年表記載のスタート地点としています。
アニメーションは線画、セル画、切り絵、影絵、ストップモーション(クレイ・人形)、3DCGと幅広い範囲で紹介しています。
また、商用アニメだけでなく、アートアニメ―ション・実験アニメ―ションも重要な要素と判断していますので出来る限り幅広いジャンルで紹介したいと考えています。
出来る限り正確を期するよう資料、書籍、作品ディスクなど確認に努めましたが、
万が一、間違い等がございましたら、いちアニメーションファンの浅学によるものでございます。
その祭は恐れ入りますが、ご指摘、ご教授くださいますようお願い申し上げます。
※敬称略
※ここ違うんじゃないか?という箇所がございましたら、遠慮なくコメントしてください(承認制になっています)。
※当ページのコピーを禁じます。
1917年(大正6年)
【日本の商用アニメーション映画作品の始祖 漫画と絵画のパイオニアとの縁】
下川凹天(しもかわへこてん・おうてん) 本名下川貞矩(さだのり)
(1892年5月2日〜1973年5月26日/漫画家系統)
沖縄県 宮古島生まれ。6歳の時に父が他界し叔父に引き取られ上京。
1905年 北澤楽天主催の諷刺雑誌「東京パック」の内弟子募集を知り、14歳で弟子入りするも素行不良で1年半で破門。
1912年「東京パック」経営社主と喧嘩別れした楽天が新雑誌「楽天パック」を創刊した機会に謝罪し、同雑誌で漫画家として活動開始するも、1913年に大阪朝日新聞社へ入社。写真修正の仕事に従事。
1915年に東京へ戻り「東京パック(第2次)」の編集に携わり、漫画「芋川椋三(いもかわむくぞう)」シリーズ執筆を開始するも同年に休刊。
1916年秋頃に「東京パック」での知人より天活を紹介され、アニメ―ション制作との縁が拓かれます。
2017年1月時点において記録上、日本最古の商業用アニメーション作品(映画)は
1917年1月キネマ倶楽部※にて封切作品「凸坊新画帖 芋助猪狩の巻」の記述が
当時の映画雑誌「活動写真雑誌」1917年3月号に記載されていたことから
下川凹天制作作品、日本最初のストーリー形式のアニメーション映画作品の可能性として最も可能性の高い作品として位置づけられています。ただ、何日に封切公開されたかについては不明のままです。
黒板にチョークで描くアニメ―ション手法だったといわれています。
1917年2月上旬に下川凹天制作「凸坊新画帖 名案の失敗」※1
同年4月に同「芋川椋三関番の巻(いもかわむくぞうげんかんばんのまき)」公開が
専門調査チームの見解となっています。
※2017年1月時点 ※1 同じ作品をタイトル名を変えて上映した可能性も考えられる
参照
これら作品の制作は1916年に天然色活動写真株式会社(天活)から依頼を受け、1年以内に作り上げたようです。当時、凹天25歳。
「芋川椋三玄関番の巻」の当時の評論 雑誌「キネマレコード」5巻47号より
【芋川椋三玄関番の巻 Mr,Imokawa's Janitor 天活第三次の線画トリックだ。こういふ試みは嬉しい。タイミングが馬鹿に気に入った。巧妙である。】
当時の下川アニメーション制作手法について撮影に参加した写真家大森勝の回顧録より一部抜粋。
雑誌『日本映画の誕生』大森勝「草創期のカメラマン」(1985年)より
【黒板に絵を一コマ写しで太陽光線で撮影 レンズ絞りに苦労した。】
北山清太郎(きたやま せいたろう) (1888年3月3日〜1945年2月13日/画家系統※雑誌編集者としての活動貢献でも知られる)
和歌山県和歌山市生まれ。学校卒業後丁稚奉公を経て1908(昭和41)年横浜でみどり洋画会結成。この時より美術関係活動を開始し、機関誌「みどり」発刊。同年に展覧会も開催。
水彩画家のパイオニア 大下藤次郎の設立した日本水彩画会に入会し、水彩画家だけでなく洋画研究も行い、美術雑誌「現代の洋画」「現代の美術」の発刊、当時の美術雑誌「みづゑ」編集参加に美術道具の通販、水彩画会の参加など精力的に行動。
1911(明治44)年日本洋画協会の立ち上げや1912(大正元)年に斎藤与里、岸田劉生、高村光太郎たちと「ヒュウザン会」設立など、日本洋画界草創期の発展に寄与し、当時の若手洋画家の活躍を下支えしました。
これら豊富な経緯から絵画(水彩画・洋画)に関して彼は卓越した知識をもっていたことが推察できます。
1916(大正5年)夏に映画館で上映されていた海外のアニメーション特集上映会を観たことから制作に興味を持ち、研究を開始。友人で映画の背景を描いていた斎藤五百枝(いおえ)の紹介で日活向島撮影所でアニメーション制作を開始することになります。当時、北山清太郎29歳。
1917年(大正6年)5月20日、日活向島(撮影所)製作、北山清太郎制作第1作作品「猿蟹合戦」が浅草オペラ館で封切公開され、アニメ―ション作家として2番目となる作品を世に送り出しました。※
残念ながら上映できるフイルムは見つかっていません。
※封切作品順では5番目にあたるとみられている
また、彼は経営や組織での運営に携わっていた実績が作用したのか、後に日本初となるアニメーション専門スタジオ北山映画研究所を立ち上げ、数多くのアニメーション作品を発表した功績は大きいです。
宣伝としてのアニメーション映画を制作したのも彼でした。
アニメーションに関心を持った若者たちの受け入れたことも北山映画製作所での作品発表数の多さや、その後のアニメーション業界の発展に寄与することになります。
弟子には東映動画(現 東映アニメーション)立ち上げに貢献するアニメ作家 山本早苗もいました。
これら上記の作品は残念ながら映像は現存しておらず、雑誌などでフイルムの一部コマを転写した記録の断片でしか存在を証明するものが無いのが現状となっています。
下川凹天と幸内純一の師匠 近代漫画の始祖 北沢楽天
3人の先駆者のなかで下川凹天と幸内純一は明治38年、近代漫画の始祖といわれる漫画雑誌「東京パック」※の生みの親 北沢楽天の弟子で漫画家出身ということも商用アニメーション草創期から商用マンガとの縁を感じさせます。 ※日本初のカラー漫画雑誌
日本近代漫画の先駆者 北澤楽天年譜 (さいたま市)
近代漫画家の始祖 北沢楽天の漫画 手塚治虫記念館展示より
明治43年(1910) 北沢楽天 「暑中の乗合馬車」『東京パック』
下川凹天の漫画 手塚治虫記念館展示より
幸内純一(こううち じゅんいち)
(1886年9月15日〜1970年10月6日/水彩画・漫画家系統)
岡山県生まれ。1905年に水彩画家三宅克己に入門し1906年太平洋画会洋画研究所に所属し2年間デッサン、油絵を習得。
1908年に三宅より北澤楽天の紹介を受け雑誌「東京パック」へ移籍しますが、同年10月号で同雑誌から離脱。1912年に東京毎日新聞に入社し、第一面の政治漫画を5年ほど執筆。
1917年 東京の映画会社小林商会の社長小林喜三郎より依頼を受け、前川千帆とアニメ―ション映画制作を開始します。当時幸内純一31歳と言われています。
また、「塙凹内名刀之巻」と「ちょん切れ蛙」は幸内純一と共に協力して制作したといわれている漫画家前川千帆(せんぱん)も歴史上重要と判断し紹介します。
前川千帆(せんぱん)
本名 石川重三郎(1888年10月5日〜1960年11月17日/漫画家系統)
京都府下京区生まれ。1905年関西美術院入学 浅井忠、鹿子木孟郎の教授を受け、
この頃より学費工面のため各新聞漫画欄への投稿を行います。
1912年に上京し「東京パック」に参加。同年北沢楽天退社に伴い新雑誌「楽天パック」、「家庭パック」に移籍し活躍するも大正期に入ると人気減退により3年程で廃刊に。
1915年京城日報に入社し朝鮮へ。1917年に帰国し、幸内純一とアニメーション制作に参加。
当時29歳。
残念ながら前川千帆本人からのアニメーション制作に関する証言は見つかっていませんが、
雑誌「東陽」1巻6号に幸内純一執筆記事に前川千帆との合作が表記されています。
幸内自身が"原作デザイン共に前川千帆君との合作であったから前2者(下川・北山)より優秀な効果を納め得た”と記載していたことから、二人が対等な関係で制作していたことが伺えます。
現存する最古の国内制作商用アニメ―ション作品
幸内純一監督 「塙凹内名刀之巻(なまくら刀)」 (詳細・視聴)
小林商会 1917年6月30日浅草帝國館公開。
ジャンルはアクションありの時代劇。主人公の侍が辻斬りしようとたくらむ悪役の設定と表情表現、ワイプの活用(しかも冒頭シーンは丸に収まらない柔軟な表現が見られる)アクション時の漫譜にあたる☆の表記、線画調パートと影絵調パートの2部構成、さらには当時の国産漫画でもかなり希少と思われる吹き出しのアニメーション・?活用等、公開当時のアニメーション評論でも高い評価が与えられています。
制作素材の違いはあれど、現在のTVアニメ作品に通じるアニメーション表現がなされている点は大変注目に値し、今でも何ら遜色なく楽しめる作品で、驚異的なクオリティーに思えます。
「塙凹内名刀之巻」当時の評論
吉山旭光 「写真短評『塙凹内名刀之巻』」『活動写真雑誌』3巻8号
【日本凸坊新画帖として小林商会の試みの一つたる「塙凹内名刀之巻」は線の太い具合などがユ社の凸坊新画帖から思いついたらしく、なかなか良い出来だ。併し投げた小判や刀の鞘の動きがチト間延びしたのは、撮影の駒数の関係からであろう。併し何しろ旧派の比種のものを我邦で最初に試みたことは特に記して置かずにはなるまい。】
画像引用元 東京国立近代美術館フイルムセンターウェブサイトより
YouTube (別ウィンドウでページが開きます)
2008年に映像文化研究科 松本夏樹氏所蔵ポジフイルム(後半部分 黄)のデジタル復元
2014年に調査により発掘されたポジフイルム(前半部分 緑)とつなぎあわせることにより、ストーリーの起承転結がわかる完全なかたちでの公開に至りました。
更にに2017年末、僅かながら、これまでになかった新たに動きが入っているフイルムも発見されてます。
参考 (元記事 NHKニュースオンライン ※現在は消失)
商用アニメ―ションのパイオニアの下川凹天と幸内純一は近代漫画のパイオニア北沢楽天の元で漫画執筆経験があり、北山清太郎は近代日本における水彩画のパイオニア大下藤次郎に師事。
3人がそれぞれ製作会社を介して同じ年に競うようにアニメーション映画を発表した事実の裏にはそれなりに発表できるだけの実力と行動力が彼らは持っていたことを証明しているように思えます。
また上記の4名は「東京漫画会」に所属し、下川・北山・幸内はそれ以前より交流もしていたようなので、互いに刺激し合って制作に勤しんだライバルのような関係だったのかもしれないです。
下川凹天、北山清太郎、幸内純一、前川千帆のプロフィールと漫画「芋川椋三」の一部画像は(ニッポンアニメことはじめ〜「動く漫画」のパイオニアたち〜展)
作家制作順では3番目に位置しますが、作品順では現在のところ7番目になります。
なお、現存する国内最古アニメ―ション映像としては
1906年以前に作られたのではないかといわれている国内制作と思しきアニメーションフイルム
「活動写真」の存在が報告されています。
参考
松本夏樹氏・津堅信之氏共同報告/松本夏樹の驚異の箪笥より
この作品はセルロイドフイルムに直接合羽摺りを施したもの。
作品映像は3秒とほんの僅かなものでループフイルムとなっていて
用途としては玩具映画としての作られたもののといわれています。作者は不明です。
商用利用としての記録が見つかっていないまま、現在に至っています。
1917年(大正6年) ※当時の封切館はいずれも浅草六区の映画館
1月
「凸坊新画帖 芋助猪狩の巻」 製作 天活 制作 下川凹天 キネマ倶楽部(封切公開劇場)
2月上旬
「凸坊新画帖 名案の失敗」 製作 天活 制作 下川凹天 キネマ倶楽部
※第1作「凸坊新画帖 芋助猪狩の巻」と同じ内容の可能性も考えられる
3月下旬〜4月上旬
「芋川椋三 玄関番の巻」 製作 天活 制作 下川凹天 キネマ倶楽部
4月28日
「茶目坊新画帖 蚤夫婦仕返しの巻」 製作 天活 制作 下川凹天 キネマ倶楽部
5月下旬
「芋川椋三 宙返りの巻」 製作 天活 制作 下川凹天 キネマ倶楽部
この時点で国産商用アニメーション第1号制作者という実績においては
下川凹天と天活がリードしていたことがうかがえます。
5月20日
「猿蟹合戦」 製作 日活向島 制作 北山清太郎 オペラ館
下旬 「夢の自動車」 製作 日活向島 制作 北山清太郎 遊楽館
6月
30日 「塙凹内名刀之巻(なまくら刀)」 製作 小林商会 制作 幸内純一 帝国館
7月
「芋川椋三 チャップリンの巻」 7月14日公開 製作 キネマ倶楽部 制作 下川凹天
実在するキャラクターをアニメ化させた最初期の事例と推測される。
10月7日
「貯金のすゝめ」 製作 日活 制作 北山清太郎
12月頃
「桃太郎」 製作・配給 日活 制作 北山清太郎 フランスへ輸出される
記録上、日仏協会を経て公式的に初めて外国へ輸出された国産アニメ―ション作品。
1917年に制作されたアニメ―ション映画は現時点で計18作品確認されている。
また、下川は「文展の巻」と「お鍋と黒猫の巻」というタイトルの作品も制作したとされるが公開日は不明。
1918年(大正7年)
浦島太郎 製作 日活 制作北山清太郎(推定)
2017年2月に雑誌「幼年世界」1918年3月号発刊で新たに「浦島太郎」の図版写真と物語が発見。
トップタイトルの写真も掲載され、日活マークが確認でき、今回発見された資料から北山作の可能性が高いと判断されています。(北山清太郎制作『浦島太郎』の新資料発見について/渡辺 泰)
なお、これまで北山作とされていた「浦島太郎」の作者は誰なのか、いつどこでどの配給会社によって封切されたのかについても調査の余地があります。
制作者不明となった「浦島太郎」のフイルム
1924年(大正13年)
「煙り草物語」 大藤信郎制作による日本最古の実写合成アニメーション作品(試作)
2004年6月19日 東京国立近代美術館フイルムセンター職員が発見する。
出演している美しい女性は大藤の姉か妹と推察されている。
「兎と亀」 製作 北山映画製作所 制作 山本早苗
北山清太郎が製作関与している作品としては唯一映像が完全な状態で保存されている作品。
現代でもよく使われる疑問符「?」がアニメーションで登場している。
1925(大正14)年
「教育線画 姥捨山」 作家 山本早苗 製作 東京漫画倶楽部
冒頭の翁の面や少年の姿の絵は画家を志していた山本の絵の才能と多様性を感じさせる作品。
凝ったワイプ装飾も特徴的。
「線畫 つぼ」 作家 山本早苗 製作・配給 文部省
文部省が依頼した初のアニメーション映画作品。あらゆるデザインで描くことのできる山本の才能がこの作品でも活きている。千夜一夜物語の一部の章をモチーフにシナリオ制作。
人物の作画や背景画の緻密さも印象的。台詞は吹き出しや切り文字を活用。
このほかの出来事
日本最初のラジオ局開設(現 NHK東京ラジオ第1放送) ラジオドラマ放送開始
1928年(昭和3年)
9月 「動物オリムピック大会」 製作 横浜シネマ協会 原案 青木忠三 作画 村田安司
オリンピックを題材に動物たちに軽快なギャグを織り交ぜながら、スポーツアクションを行う娯楽要素の高い作品。線画のように見えるが切り絵で制作されている。
「日本一 桃太郎」 製作 タカマサ映画社 配給 小西六本店 制作 山本早苗
おとぎ話の展開を忠実にしているが、今でいうバトルアクションものとなっている。
切り絵アニメ―ションと思われるが緻密な動きの表現に驚かされる。
11月3日 手恷。(治虫)誕生
1929年(昭和4年)
「漫画 瘤取り」 原案・脚本 青地忠三 作画 村田安司 製作会社 横浜シネマ商会
サイレント(BGM・SEは後年追加)
村田安司は切り絵アニメーションの名手といわれています。今に通じる劇画調の大人も楽しめるアニメーション映画で、影の再現も大変見ごたえあります。
参考
「黒ニャゴ」千代紙映画社 制作 大藤信郎 ※レコードトーキー採用アニメーション作品第1作
幸内純一のもとでアニメーションを学び、千代紙を用いた作品やパラフィンフイルムを使用したカラーアニメーション作品を制作しています。
海外から高い評価を受け、「くじら」はカンヌ映画祭短編部門第二位(1953年)、
「幽霊船」はベネチア国際記録映画祭特別賞を受賞(1956年)。
日本のアニメーション技術が世界に知られるようになった最初期の事例です。
彩色漫画の出来る迄 大藤信郎の制作映像が見られます。
1930年(昭和5年)
「難船ス物語 第一篇 猿ヶ島」 作家 政岡憲三 製作 日活
日本動画の父と言われるほどの実力を持つ同氏による作品らしく、切り絵アニメーションで細やかな動きを表現。冒頭の荒れる波はサンドアート的手法で、指で波の動きを少しずつ動かして表現していると推測。赤ちゃんと猿が鳴き合戦するシーンは切り文字を巧みに使ったタイポグラフィーとアニメーションを組み合わせている。
1931年(昭和6年)
「茶目子の一日」 製作 協力映画社 西倉喜代治
国産アニメ―ション作品最初期にあたるトーキー作品のひとつ。女の子が楽しめそうな内容ながら
シュールでエキセントリックな描写も面白いオペレッタアニメ―ション。
このほかの出来事
ムーランルージュ新宿座設立…日本生存最古のアイドル明日待子を輩出。
1933年(昭和8年)
「動絵狐狸達引 短編映画」
監督 大石郁雄 製作 P.C.L.映画製作所(東宝の前身の一社) 当作品が第1作目
作画 大石郁雄 藤田浩 山口淳 市野正二
1935年(昭和10年)
「いなばの国の兎さん」 作家 瀬尾光世 製作 旭物産映画部
冒頭から前半にかけて動きのある兎と動きを抑えたサメの展開から兎に騙されたことを知って一気に兎に襲い掛かるサメの動きの静から動への変化がインパクトを与える。大黒天の瞳の描写に当時の海外カートゥーンに通じるものを感じさせる。結末部分が欠損。
1936年(昭和11年)
「おいらの非常時」 作家 山本早苗 製作 日本電報通信社活動寫眞部
戦争アクションもの作品。生き物から飛行機へ変身するキャラクターの柔軟な発想だけでなく、
空中アクションシーンや木の葉のように落ちる戦闘機の描写、雲や煙の細やかな描写も印象的。
1939年(昭和14年)
持永只仁、芸術映画社入社 瀬尾光世のもとでセルアニメ―ション制作参加
1940年(昭和15年)
「あひる陸戦隊」 作家 瀬尾光世 製作 文部省、芸術映画社
トーキー作品。戦争が始まる時局の作品ながら、瀬尾らしく、前半は牧歌的でのどかな雰囲気を与える作品。文部省が参加しており、戦意高揚的な要素はなく、無為な争いの愚かさを教訓とする作品。
1941年 (昭和16年)
「アリチャン」
製作 藝術映畫社 監督 瀬尾光世 撮影・背景・動画 持永只仁 音楽 服部正
政岡憲三氏からアニメーションを学んだ瀬尾光世氏監督作品。
撮影を担当した持永只仁が日本初となる4段式マルチプレーンカメラを制作・活用した作品。
1月5日 宮崎駿 誕生
1943年 (昭和18年)
4月15日
「くもとちゅーりっぷ」公開 16分アニメーション映画
監督 脚本 政岡憲三 製作会社 松竹動画研究所(松竹初のアニメ映画)
原作 横山美智子作 童話「よい子強い子」の一編
動画 桑田良太郎 熊川正雄 土井研二 山本三郎 木村阿弥子
太平洋戦争中に制作された日本初のフルセルアニメーション作品。
当時、貴重だったセル画を使用した作品で再度使用するため、セル洗いをしながら制作したそうです。
使用セル画数約2万枚。セリフから収録し、口の動きを描いてゆくプレスコ方式を採用。
映画はモノクロですが、色調の微妙な色の違いを出すため、セル画は着色されていました。
既にこの頃から、かわいい子は目がやや大きめに描いているのでしょうか。
まつ毛のラインと太さは特筆すべき点かもしれません。
この作品の特徴は何といっても萌えの源流ともいえる可愛らしさでしょうか※。
てんとう虫の女の子の動きが妙に魅せるものがあるのは
水着を着た政岡監督の奥さんの動きを参考にして作画したといわれています。
今の時代とは全く違い戦争中にもかかわらず、このような叙情性豊かな作品が作られることは驚くべきことかもしれません。
かわいらしさと芸術性はあってもアクションなど派手さが無い「くもとちゅーりっぷ」は大阪の映画館1館のみの上映。そのうえ時局に合わないという理由で文部省からクレームまできて文部省推薦は得られず興行的に散々だったといわれています。
戦争時代に入り、なかなか物資供給が得られないなかでもアニメ映画は作り続けられます。
アニメの持つ伝えることにおいての影響力が有効という証なのかもしれません。
メディアとして大衆に大きく影響を与える映画を活用した宣伝戦略、
いわゆるプロパガンダにアニメーション映画作品も各国で数多く作られました。
たいていは戦況報告映画の本編の合間、息抜きに短編アニメ映画が組み込まれていたようです。
占領地で回収したファンタジアのフイルム映画を
軍関関係者と後述する政岡憲三氏に師事していたアニメーション作家・監督の瀬尾光世氏が視聴。
1942年 (昭和17年)
3月25日
「桃太郎の海鷲」公開 37分 日本初の大作アニメーション映画※
製作 藝術映画社 監督・演出・撮影 瀬尾光世 脚本 栗原有茂 技術 持永只仁
主要スタッフ6名で制作したといわれている。
真珠湾攻撃の翌年、1942年2月。
瀬尾光世は海軍省報道部より真珠湾攻撃を謳いあげる戦意高揚アニメ―ション映画を作れという命令を受けたことがきっかけ。
冒頭のテロップに海軍省後援と記されていますが、軍事機密を理由に協力は得られなかった模様です。ですが、潤沢な制作資金が海軍省から用意され作られています。
作風はだいぶ角を取り払ったデフォルメされた飛行機などの機械類やキャラクターなど、幼い子供が楽しめるような作りになっています。(ただ、一部シーンは実物に合わせた描写になっている)
ストーリーは第二次大戦の真珠湾攻撃をモデルにした鬼ヶ島へ猿・犬・キジの航空部隊が鬼退治(奇襲攻撃)を行うというもの。
ちなみに耳の大きな猿くんは手塚治虫が後に発表する「ぼくの孫悟空」のキャラクターデザインに影響を与えているといわれています。
戦時中ながら、桃太郎の海鷲は子供達から大好評となり、この作品の興行収入は64万円。
現在の貨幣価値で10億円以上の大ヒット作品となりました。
大ブームになるほどのアニメーションの影響力の大きさを政府が知ったのは、この映画が史上初なのかもしれません。※
※東京では子どもたちが大行列を成していたが、手塚治虫の述懐によると
大阪でもウケていたが中国の作品「鉄扇公守の巻 西遊記」ほどではなかったとの記述あり
参照 手塚治虫 「漫画の奥義 作り手からの漫画論」P101より
1943年(昭和18年)
「マレー沖海戦」 大藤信郎
太平洋戦争初期のマレー沖対戦を影絵アニメーションで再現。
これまでの優雅な印象を与える大藤信郎作品としては異色となる壮絶な機銃掃射と爆撃シーンがリアリティとともに強いインパクトを与える作品。
1944年(昭和19年)
11月
「フクちゃんの潜水艦」公開
製作 朝日映画社 原作 横山隆一 脚本 滋野辰彦 撮影 持永只仁
新聞漫画の主人公フクちゃんの海軍での活躍を描いた作品。
潜水艦の描写も当時としては珍しいうえに臨時補修や整備シーンも見られる。リアルさを意識した潜水艦描写している作品としては日本初と思われる。
潜水艦浮上シーンも見られます。
4月12日
「桃太郎 海の神兵」公開 74分
製作 松竹動画研究所 指導 大本営海軍報道部 後援 海軍省
構成 熊木喜一郎 脚本・演出 瀬尾光世 影絵 政岡憲三
音楽 小関祐而 作詞 サトウハチロー 演奏 大東亜交響楽団・松竹軽音楽団
1946年に松竹動画研究所に勤めることになった瀬尾は政岡と優秀なスタッフとともに再び、海軍省の依頼で戦意高揚映画を作ることに。
戦局が悪化するなか、映画制作期間の1年間は瀬尾氏(ほかのスタッフは不明)の戦地招集は猶予。制作予算は27万円(現在の約4億円)と当時のアニメ―ション制作において破格の金額でした。
当初、70名のスタッフで制作され、1つのキャラクターに担当のアニメーターが1人制作するという贅沢な環境下で制作は開始。セル画数5万枚、1年4か月の期間を要して制作されました。
物語のモデルは オランダ領インドネシア・セレベス島への海軍落下傘部隊 メナド降下作戦を描いたものですが、兵隊である猿・犬・キジがひと時の里帰りから始まります。
あらすじ
地元で家族や子供達との穏やかなひと時を過ごす兵隊さんたち。
子どもたちに質問攻めにあい、航空兵であると伝える猿たち。でも、本当の所属部隊は・・・。
やがて作戦実行へ向けて日本を離れ、現地の人とともに設営を行い、極秘作戦実行。
落下傘で鬼ヶ島へ降下し、命をかけた激しい戦闘が開始される。
【印象的なシーン】
かなり丁寧に作られた作画で見どころ満載ですが特に興味深いシーンです。
里帰りし、穏やかな休息を楽しむ猿が軍人の顔つきになる変化。こういった表情の変化を描くのは当時の作品全体から見ても少数ではないかと思われます。
プロパガンダ映画ですが、戦争の悲壮感を描いています。作戦で死亡した人数も読み上げるシーンも確認できます。
政岡憲三が担当した影絵シーン。影絵なのに立体的な描写を成し遂げる政岡氏の超絶技巧に目を奪われます。
世界初と言われる透過光の採用と緻密な軍関連機器・設備描写。
当時のパラシュートを折りたたむ資料は戦火で焼失し、この映画作品しか残されていないらしいです。※
瀬尾はシナリオ制作のため、落下傘部隊のシーンでは実際に体験入隊を志願。その時の経験がパラシュート関連のシーンに活きています。
※要再調査
緻密な再現描写。まき散らかるトランプの動きを再現するためそのシーンだけで瀬尾氏は制作に1か月を要したそうです。
このシーンはイギリス軍に無条件降伏を迫る山下・パーシバル会談の実際のシーンをほぼそのままに描かれてます。
戦局の悪化により、当初70人ほどいた作画スタッフが戦地へ招集されてゆき、急きょ、素人同然の作業員を政岡氏主導で通常1年かかる技術を1か月で叩きこんで制作を継続。
しかも、空襲があるたびに制作を中断し、動画などを持って防空壕へ避難するという、壮絶な環境下で作り上げたのでした。
↑松竹動画研究所でのデッサン指導の光景(推定)
NHK その時歴史が動いた2000年6月28日放送 「戦火のなかでアニメが生まれた」 桃太郎海の神兵より
ディズニー最新作品との対峙と衝撃
「」桃太郎 海の神兵」制作中、海軍より呼び出された政岡と瀬尾。
映画作品が戦地で押収された映画フイルムはディズニーの「ファンタジア」でした。
フルカラーで非常に緻密な描写の作品を観た驚きと衝撃は相当なものだったに違いありません。
音楽と映像の融合と表現力。制作技術・資本力の違い。
このような映画を作る国との戦争は負ける。
※瀬尾はアニメーション制作設備の拡充とスタッフ増員の必要性も痛感した
ディズニーの傑作「ファンタジア」を観た衝撃はアニメ―ションの仕事を始める前の手恷。虫や宮崎駿も同様と思われますが、彼らは当時、まだアニメ―ションの仕事をしていませんので、ただただ感動して心躍る気持ちだったかも知れません。
でも、既にアニメーションの仕事を携わっていた政岡氏と瀬尾氏はそれだけでない感情があったのではないかと個人的には推測します。
きっとアニメーターとしての仕事目線と感性、プライドから悔しさも感情に込められながら観ていたのではないかと思います。
「桃太郎 海の神兵」制作途中だったこともあり、ディズニーの作風を意識した演出もあるとは思いますが、何よりも戦況悪化の一途をたどる時期にスタッフも戦場に駆り出され、不安で心が折れそうになるなか、今、この状況でも出来る限りのことを精一杯やろうという気持ちがここまで汲み取れる作品が作りあげられたことは本当に凄いことだ思います。
作られた内容が戦争プロパガンダの要素があるので敵を打ち負かす描写や現地教育シーン(交流のイメージを強くしている)はありますが、あからさまな殺生描写は描かれていないです。むしろ、今では当時の文化や状況、アニメ―ション制作手法を知るうえでの資料的価値も評価されていると思われます。
そして、この映画を終戦直後の焼け野原に残った松竹座映画館で観賞したのが学生時代の手恷。虫。日本のアニメーションの技術力に感激し将来、アニメーション制作を行う決意をしたというエピソードがあります。
本土空襲でフイルムは焼失したと思われていたのですが1982年、松竹の倉庫に偶然フイルムが発見され、再びその映像が見れるようになったのでした。
「桃太郎 海の神兵」はデジタル修復版がYouTubeで視聴可能です(有料)
終戦直前
1945年(昭和20年)
4月
手塚治虫 大阪松竹座にて「桃太郎 海の神兵」を観る
焼け野原状態だった大阪の映画館で当時学生だった大アニメ―ションファン手恷。虫は大変感激し、
将来漫画映画をつくることを決心。
データ容量の関係上、ここで一区切り入れます。読んでいただき、ありがとうございました。
次は1945年(昭和20年)〜1067年(昭和42年)の年表になります。→
参考
日本アニメーション映画史 山口且訓・渡辺泰 共著
日本のアニメ全史 世界を制した日本アニメの奇跡 山口康男 編著
日本アニメーションの力 85年の歴史を貫く2つの軸 津堅信之 著
日本初のアニメーション作家 北山清太郎 津堅信之 著
NHK その時歴史が動いた2000年6月28日放送
「戦火のなかでアニメが生まれた」 桃太郎海の神兵
「ANIME NEXT100」公式ウェブサイト
日本アートアニメーション映画選集
京都国際マンガミュージアム企画展「にっぽんアニメーションことはじめ〜「動く漫画」のパイオニアたち〜展」
他、各作品DVD・各展覧会資料・各書籍
桃太郎 海の神兵の画像はすべて?松竹株式会社に帰属します。